今ふりかえる桃谷地域の歴史 第3回

まちの変化―町名の移り変わり

 明治5年以前は、江戸時代の地名が残っていたが、明治5年を境に大きく変わっていった。それまでは、どういう人々が住んでいて、どのような役割を持つ土地なのか、解る地名であった。

鉄砲奉行同心50人が住んでいた“五十間屋敷”は明治5年まで残っていた。また、“札の辻町”は“高札場”のあった所で人が多く集まる所だったことが解る。それらが近代化の波に押されて整理・変更されて行き、地名が変わるにつれ、その土地の由来も解らないようになってきている。

 “安土町”や“播磨町(もと播磨鍛冶町)”など、他所の地名を付けていたところが少なくない。これは他の土地から人々が移住して来、その出身地名を付けたものである。播磨鍛冶町などは、大阪城築城の折り、秀吉が誘致した職人たちの出身地名。

 江戸時代になってからも、城の修復や城下町作りの際に連れてきた人々の出身地名や、それらの事業に貢献した人の名を付けた。“内安堂寺町(もと籐左衛門町)”は徳川幕府が大阪の復興に町人の財力を活用し、それに貢献した人物の名前である。

 上樽屋町や上魚屋町は、それら商品を扱う商人が同業者で集まって住んでいたところで、これは全国共通である。

 

市 電

 かつて、末吉橋から玉造まで、また上本町二丁目から天王寺西門まで市電が走っていた。

玉造線は明治43年に末吉橋・上本町二丁目間で開業して明治45年に玉造まで延伸し、昭和36年に廃止された。上本町線は、明治44年に開業し昭和43年に廃止された。空堀通りとの交差点以北の谷町筋は、大正時代から道が広く市電が通っていたが、これは市電を通すためそこだけを拡幅したものと思われる。

これらの市電は1945年の終戦まで大阪市の電気局が管理・運営していた。それが終戦直後、市に交通局が設けられ、電気局は関電に移譲された。上町筋と長堀通の交差点の南西側に市電の上本町車庫があったが、現在関電の社宅となっていることも、電気局が関電に移譲されたことと関係があるのではないかと思う。

 

町工場

『私たちの町 東・南区』工場分布の表に見る通り、桃谷地域における町工場の多さはトップクラスで、谷六周辺を中心に明治以降、大正から昭和前半まで住宅と工場が一体化した町工場群が広がっていた。大阪というと“商いの町”というイメージだが、明治以降、桃谷地域の産業は“もの作りの町”であった。

 

桃谷地域と相撲

 町工場が多く怪我人等が多かっただろうことも関係してか、桃谷地域には谷町筋などを中心に病院が多かった。特に薄(すすき)病院は有名で、院長の薄恕一氏は無類の相撲好きであったため、力士の患者からは診療代を取らなかった。また「生活が苦しい人は無料、金持ちは何倍でも払ってくれ」と公言していたとのこと。

-“薄病院の中に土俵があったのを覚えている”と出席者から発言ありー

薄院長に限らずこの地域は相撲に関係が深かった。神津神社で旧暦9月に奉納相撲が催され、神社の近くの藤島部屋など、相撲部屋も多かった。しかし今は薄れている。

-“力士が浴衣姿で通りを散歩する姿をよく見た”と出席者から発言ありー

 

戦災を免れた桃谷地域

 大阪は終戦直前に大空襲に見舞われたが、焼け野原が広がる中、桃谷を中心とする地域だけが奇跡的に焼け残った(地図参照)。必死になって延焼を食い止めた住民の人々の奮闘もあったと思う。

-“真偽のほどは定かでないが、ハイカラ堀商店街の西端にある現在のサンコー(旧公設市場)が当時から鉄筋コンクリート建てで、そこで食い止められたという話がある”と出席者から発言ありー

 

谷町筋の変遷

谷町九丁目から北に上った地蔵坂の手前あたりまでは、谷町筋の道幅は広かったが、それより北は極端に道幅が狭く、真ん中で大きく曲がっており、また長堀通と交差する所などは、雨の日に荷駄馬が滑るほどの急坂であったという

この谷町筋を拡幅・直線化する工事が昭和38年に着工し、昭和44年に道幅40mの現在の道路が完成した。

この工事に伴って、谷町筋の東側は特に影響がなく、道の西側を中心とする地域が削られ、寺院や202軒の家屋・建物が立ち退きなどの影響を受けた。拡幅工事の南端から手前は寺町で、拡張工事に当たっては特にこれら寺院がネックとなった。拡張工事の南端にあった重願寺も引っ越しを余儀なくされ、今でも跡地に碑が残っている。

 

                             大阪の歴史講演 終了

                             記録・まとめ 広報部 町田