桃谷地域の歴史(その1)

木村豊三郎 記

昭和32年(1957)大阪市立桃谷小学校50周年記念誌より 

(平成3年3月発行の大阪市立桃谷小学校閉校記念誌に掲載〕

(平成30年4月、図版追加)


1.桃谷の地勢

 

 天文年間(1540年頃)紀州粉河在、寺島の三郎右衛門という人が大阪へ出て瓦焼く業を創めた。上町丘陵のこのあたりの土質が瓦製造に適している事を知って、これを利用したのであるが、これが次第に隆盛となり、大阪築城の際には豊臣家の御用を勤めるまでになったところへ慶長元和の戦である。養子の宗右衛門はこんどは徳川方に加担して功をたてた。そこで徳川の世になってからは、将軍家御瓦御用というものにして貰い、その子の藤右衛門は10町(瓦屋町1番丁から5番丁まで46,000坪)を貰い、寺島という苗字を許され、大阪3町人(御用商人)の一人と出世した。

難波九網目という書物に次の記事がある。

上本町空堀より南の方は残らず御瓦師寺島藤右衛門の請所なり。

内安堂寺町より南へ田島町まで、谷町より東横堀まで、すべて此所土取場なり。

 以上の事を要約すると、寺島氏は今の金甌部内を本拠とし、桃谷桃園の土地使用権を持っていたという事になり、今日桃谷や「のぼく」と俗称されている低地は、寺島氏が瓦の材料となる土を取り去ったあとであることがハッキリする。

 上町一帯の産土神は生国魂神社であるが、寺島氏は高津神社の氏子であった。それゆえその支配下の土地も高津さんの氏地になっている。この事は毎年夏祭の時季になるとその所属が分かるから面白い。

弘化2年(1845)弘化改正大坂細見図 (大阪市立図書館デジタルアーカイブより)
弘化2年(1845)弘化改正大坂細見図 (大阪市立図書館デジタルアーカイブより)

2.桃谷の名称

 「摂陽奇観」巻之35に、安永の頃(1772)、上本町札の辻(空堀通)を西へ出る所の土取場へ桃を植える。これによって世俗もも谷と呼ぶ、近頃東南の地にも桃を植え云々、とあり。

 「摂陽名所図会大成」巻之2に、

 弥生の頃は桃花一円にさかりて紅艶美観なり。「浪花の桜」一之巻寛政12年庚申開放(1800)に、谷町筋東裏手庚申塚の辺、南は大師巡りの道すがら、東西南北桜の花盛りに、見上げ見下す風景は吉野山の一目千本より色よく、西王母も花の盛りにはいかがおぼすらん、東方朔も、花の色には通をや失い給わんと思うも凡夫のならい、梅の浪花も桃の盛りは春を忘るゝ。とある。

 以上の文献によって、18世紀末から19世紀にかけ桃谷小学校附近から東南10数町の間に、相当な広さの桃畑があった事が分かる。桃谷小学校附近は低地であったから桃谷と呼ばれ、上六より南は地勢的に桃山と言われた訳だ。現に桃山病院という名も残っているし、桃山高等学校ももとはここにあったからである。天王寺区の小学校で桃の字を冠しているのもこれに基づく。城東線(現JR環状線)の桃谷駅も国鉄(現JR)になる前は桃山駅であったが国鉄に合併(もとは私鉄)せられてから、伏見桃山と区別するため桃谷と改められた。 

拡大図(谷町筋・上町筋加筆)
拡大図(谷町筋・上町筋加筆)
明治32年(1899)刊、南海鐵道案内より
明治32年(1899)刊、南海鐵道案内より


3.安堂寺という名

 「日本書紀」に、孝徳天皇5年(649)7月、僧旻法師が安曇寺にて病気をした、天皇が見舞いに行かれた。(原文漢文につき書き流す)とでている。

 「続日本紀」に、天平16年(746)、聖武天皇安曇江に行き、松林を遊覧せられた。百済の王が百済の楽を奏した。とのっている。

 安堂寺橋西辻の西南角に油懸地蔵が現存する。これは元和元年に地中より掘り出したもので、背面に天平11年(741)造る、安曇寺と幽かに見えたという。

 摂州渡辺安曇寺洪鐘(つりがね)の銘に、一切衆生を済度する為、諸人の助成を以て一口の洪鐘を作る、宜しく1寺の重宝として永く伝え、万代不易にせよ、嘉元3年(1305)正月26日、勧進法橋上人、鋳物師河内丹南治部入道、とかかれてある。

 この釣鐘は現在京都山科駅北方、疎水の傍の安祥寺に移り現存している。

 摂津名所図会大成巻2に、暁鐘成著(1855)安曇寺は松屋町筋内安堂寺町東角なりという、古老の言い伝えし聞き書、町内に在りと聞ゆ、此地にて井戸を掘ることあれば必ず五輪塔、墓標石等掘り出す。とでている。

 以上の文献により、今から1300年前から650年の間に「あどんじ」か「あずみじ」とかいう名の立派なお寺にあった事が明らかになる。

 なお吉田東伍著『大日本地名辞書』には、次のように書かれている。

 安曇江は東横堀の旧名なるべし、安堂寺町の名存す。又暁鐘成按ずるに、往古この辺をも渡辺といいしと見えり、一説に南御堂そのはじめ道修町1丁目にありし時、渡辺の御堂といいしとぞ。

 これで安堂寺町の語源も分かったというもの、同時に船場の渥美学校の名も出所が分かる。


4.五十軒屋敷

 近松原作といわれる「遊女誠草」道行に、さても浮世は夢なれや、誰が身もやがて尾張坂、とかく人には悪る心、無いにつけても善安筋、屋敷の前の青青と、西の海まで見晴らかし、上に波見る藤の棚、観世音ぞと伏し拝み、という一節がある。その内の尾張坂というのは今の内安堂寺町3丁目、藤の棚は谷町6丁目の中程西側、善安筋は谷町の西の筋、屋敷というのが北桃谷町にあったお鉄砲同心屋敷である事は疑いない。

 徳川時代、大阪の行政は東西町奉行が交代で行いその下に与力同心があって、諸事運行されていたが大阪城の衛戍面には御蔵奉行、御金奉行、御弓奉行、御具足奉行、御鉄砲奉行、御破損奉行の6奉行があり、それぞれ与力同心の下役があった。その内のお鉄砲同心50人の官舎に有ったのが北桃谷町で、本校の北から安堂寺町通の南裏手までの間がそれである。宝永板「公私要覧」(1709)にはこの50軒の名前が列記せられて居る。明治維新後は廃官になり、各地へ転退したが、牧田、沢、杉原の3家は今も猶子孫が居られるのは、周知の事でもあるし、牧田家はまだ門と土塀を残して居られる。北桃谷の東部には別に御具足同心12軒の屋敷があったので、12軒屋敷と町名のように行っていた。今の佐原氏の並びがそれである(東区十二軒町はお金同心の御屋敷でこれとは別)。


5.ふだの辻

 上本町空堀を札の辻といった。300年前の明暦元年の土地台帳が残っているが、これには塀の外、札の辻町となっている。豊臣時代大阪城三の丸の8丁目口の門外にあたる(大阪城の南門は松屋町口と谷町口と、この8丁目口の3つである)この辺を八丁目と呼んだ為、清堀連合に八丁目東寺町、八丁目中寺町などという変な町名がある訳だ。

 札の辻には高札が立っていた。高札というのは一般大衆への告知板で、正徳年間の規定によると、ここには次の7つの制札があったらしい(天王寺と今宮にも札の辻があった)。親子札、毒薬札、きりしたん札、火事札、火付札、荷物の次第札、駄賃札。

 それぞれどんな事が書かれていたか、時によっても違い、詳しい事も分からないが、つまり今日の商取引、民法、刑法、軽犯罪法の項目があげられていたようである。

  定  め

 ばてれん訴人 銀三百枚

上きりしたん宗門の事 累年御禁制たりといえども 御代替につき いよいよ油断無く相改むべき旨仰せ出され これ以前 訴人銀二百枚下され候といえども 今後は上の通り御褒美下さるべし 自然審かなざるものあらば申出ずべし もし隠しおき他所より現わるるに於ては五人組(町会役員)まで曲事たるべきものなり 下知により件の如し

  承応三年正月                                町 奉 行

まあ一寸こんなものである。文中の御代替というのは後光明天皇が崩ぜられ、後西天皇が即位せられた事か、将軍家綱が家光を継いだ事かよく分からない。


6.庚申塚

 61日目に廻ってくる庚申の晩、みもちになった女に生れた子は盗賊になると伝えられる。現に昔の大泥棒石川五右衛門がそうなのだと教えてくれたが、まさか五右衛門の親に近づきがあった訳でもあるまい。

 この夜「さんしちう」という無視が出て、眠っている人間の寿命を食うという迷信が昔の」中華にあり、それが日本に伝わって仏家の説と混じり、神道の話とからんで庚申さんの信仰はややこしくなった。即ち仏教では「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿の画像を掛け、青面金剛を祀り、神道では猿田彦神の像をまつる。

「摂津名所図会大成巻2」に、村里に庚申塚をたて草堂を営み、庚申の夜、農夫ここに集りて終夜庚申を守る事、今もなお然り、と出ている。何しろその夜は無理からでも徹夜せねばならぬのだから、世間話や雑談にでも時を過ごす必要があった。それで日常頃から話は庚申さんの晩にとか、庚申待にゆるりと聞こうとかいうシャレ言葉が生まれたのだ。

 大阪が「おさかという在所」であつた頃に、庚申塚のあった場所は上汐町から桃谷へはいった右側、今の上町中学の門の辺りであるらしい。明治の終わり頃まで南の辻の東角に石燈籠が残っていた。

「摂陽奇観」巻35に、庚申塚は何国にても村はずれにあり、そが中に大阪上町の庚申塚は昔より名高きところなり、今は道筋垣より内になりて知れ難し(1722頃)、とでている。

 昔の刑罰に「所払い」というのがあった。期限をきつて一定の土地に出入りする事を禁じたものである。

大阪の所払いはこの上町の庚申塚で行われた。即ちここで役人から、きまりの数だけお尻を鞭でひっぱたかれて追い出されるのだ。殊に12月20日には、西賑町にあった牢屋から、大勢の軽犯罪者が、ここ迄ふごに乗せて担ぎ出された(運動不足とビタミンの欠乏で足腰の立たぬものが多かった)。

 彼等の中には行きがけの駄賃に、近所の店の品物をかすめる事があるので、通りの商人は表戸をおろしてこの12月12日(はてのはつか)を恐れた。つまりこの辺が昔の大阪市、即ち大阪三郷(さんごう)のはずれという事になる。俗称樟通りは墓の谷(はかんたに)と呼ばれて来た。現在道路の中央にある樟は南隣の本照寺の境内だった。似てその頃の道路の狭さも想像出来よう。


7.榎の跡

 北桃谷町63番地先、道路の曲り角にあった枯木の榎が、昭和29年秋、台風予報に恐れた人達によって取除かれた。どうせ枯れた木が生きかえる事はないが、この位置は保存したいと思う。

 というのは、ここにあった榎は大阪でも最も古い記念物で、これと生国魂神社東方榎の宮をつなぐ線を延長した方向の泉北、泉南郡から和歌山県下に到るまで、同じ榎が一直線に並んでいる、平安朝時代の熊野詣の大道の街路樹なのである。

 紀州の熊野へは、当時多勢の人が参詣した。一般大衆だけでは無く後白河法皇の34回をはじめ、天皇の行幸、女院の御幸だけでも100回を超えている。従ってその頃の賑かさは想像に余りがある。

 当時、京都からは、船で八軒屋まで下り、上陸して御祓筋を南進、安堂寺町通(ここにも榎がある)を東へ曲がり、上本町の手前から一直線に南は行く街道があったのだと言われる。以上は浪速古道の研究家竹山真次氏の説である。

 何にしても桃谷校の東の筋、佐原さんの前の細い道が800年前には今の御堂筋のような大阪第一の国道であったとは、想像するだけでも愉快である。

 ついでながら、古木が神として祀られたり、神の住居として考えられている処はかなり多いが、この榎には赤い鳥居が建っていたから稲荷さんであったらしい。

むしろ土地の神であった方がよかったかも知れぬが、地の神様はよく痔の神様と間違えられていられるから何ともいえない。


8.桜町と藤之棚観音

宝泉寺
宝泉寺

 摂陽奇観巻之1に、豊臣氏が大阪城を築いた頃、城内の水質が悪くて困った事が書かれている。茶道に熱心な太閤さんだけに、清水を得る為に一入の努力を払った。即ち本丸に新しい井戸を掘って井戸側を銀にしたり(銀明水)、天守台の井戸へ黄金を埋めたり(金明水)したが、これでも水は良くならなかった。

小橋(おばせ)のこなた清水谷に名水あり、到ってかるく水性よく、お茶の水となる。今にその清水あり。 

そこで此地に高楼を建て、千利休の茶の湯の会が催された。

 其地より西へ桜の並木を植えさせられし故、其処を桜町という。 

この桜町が今の内安堂寺1丁目である。そして桜町を代表するものは宝泉寺の観音様だ。そのむかし聖徳太子が皇太子という地位を捨てて仏門に入られた後、それまで太子をお育てして来た乳母の月益、日益、玉照の三女性も後を追うて剃髪し、尼となって四天王寺西門の引声堂の南に草庵を結んだ。この尼が寛永年間(1624−1644)に此地へ移されたもので、聖観世音を本尊としているから桜町の観音の名で知られ、又再三の大火にも焼け残ったので火除観音と崇められて来た。大衆作家の」直木三十五は、その著「大阪物語」で、その由緒正しい尼寺である事を書き残している。 

藤之棚は谷町6丁目の中程を桃谷幼稚園へ下りる一角、正しく言えば谷町6丁目40番地に、元禄年間から天保6年(1834)までの間150年余存在した。 

 元禄14年に出た摂陽群談という本に、谷町の藤として細かく記されている。ここに在った池に溺れた子供の後世を弔う為、池を埋めて観音堂を建て、その傍に藤を植えたが、これが次第に繁茂してすばらしい藤の棚が出来上ったので、大阪の名所になったというのである。 

 徒歩より外、交通機関の無かった当時の船場、島之内の人々は、散歩池としてもこの上町の高台にあこがれたものらしい。天気のよい日は海が見えた時は、大近松も名著「曽根崎心中」に書いている。この寺は後に新町へ移り、今は箕面へ行った。


9.地蔵はんの夜店と金比羅宮

 上町で夜店の出るのは、8の日の内安堂寺町と4日の空堀である。前者は観音さんの夜店、後者は地蔵はんの夜店といわれていた。南桃谷町15番地で五十軒筋から南へ突き当たって西隣にあった地蔵堂の縁日である。とかく神仏は北に向う事をさけて居るが、此の地蔵堂は、はるか北の方の南大江連合にある南向地蔵と向かい合って「北向地蔵」をわざわざ名乗っていられた。明治40年の内務省令で氏子や信者のきまってない社寺はそれぞれ然るべき神社仏閣へ統合せられたが、この地蔵さんもその為に姿を消した。

 同じく内務省令のぎせいになって無くなったものに、空堀の金比羅はんがある。空堀町の中程南側(32番地)で南へ下りる坂の西角にあった。大阪3金比羅の1つという事で、周囲には今でも昔を偲ばせるような石垣や標識が残っている。お堂は東向に建っていて、前に石畳が敷いてあり、東と北に門があった。地蔵はんの夜店の晩にはついでながらにお参りをしたものであるが、文献の上ではここの方がずっと上である。このあたりを上町の三軒屋と呼んでいた為、三軒屋の金比羅としてよく物の本に出てくる。大正橋の向うの三軒家は後に出来たもので、江戸期の三軒屋とはこのところの事だ。


10.高 原

 市電が末吉橋を東へ進むと陸橋の下をくぐる。此の陸橋は電車道が開けてから新たに架けられたものであるが、誰がつけたかこの橋に高津原橋(たかつはらばし)と名がついた。飛んでもない事である。

 今から100年余り前に出た「難波丸網目」に、内安堂寺町谷町筋より西南の分は、生駒町(今の田島町)の裏通りより松屋町裏町まで高原(たかはら)というと出ている。今でも古老でこの名を知っている人が相当ある筈だ。高原の地は「朝鮮高麗の土器に劣らず」と賞玩せられた茶器香具を産した高原焼の出所であるし、歴史的にも高原焼の元祖高原市左衛門の名も明らかになった今日だ、しかも瓦土取場の西の小高いところに茶碗山という地名もある、何を苦しんで高津原橋というようなハンパな名を付けたのだろう。


 現在、市電がなくなり、谷町筋が広くなり、地下鉄が走った。古い木造家屋があちこちでとりこわされ、高いビルに生まれかわっている。町のようすも刻々と変化してきている。