桃谷連合自治会の歩み

桃園連合(桃谷連合を含む)の図(昭和2年=1927)
桃園連合(桃谷連合を含む)の図(昭和2年=1927)
  • 明治以来、昭和の初めまでは南区は、桃園、金甌、渥美、芦池、御津、大宝、高津、精華の9学区であった。
  • 昭和2〜7年に、鉄筋校舎に改築。

昭和14年 桃谷連合の範囲
昭和14年 桃谷連合の範囲
  • 昭和14年4月 桃谷小学校と校名を変更した。
  • 1小学校で1連合町会を組織することになる。
  • 桃谷町会連合会が誕生した。

昭和57年以前の旧町名の地図
昭和57年以前の旧町名の地図
  • 昭和14年の発足時は、上本町筋2、3丁目は上町筋の東側も含まれる。
  • 内安堂寺通り1丁目は上町筋より東の部分も含まれる。
  • 昭和18年、大阪市は15区から22区になる。同時に上記の上町筋の東側は天王寺区に、東の部分は東区になった。桃谷は14年に独立した時より縮小され、現在の範囲になる。
  • 昭和53年、住居表示が変わるお知らせが配布される。
  • 昭和54〜56年、新住居表示について、度々協議がされた。現行の案までにはいろいろな素案があり協議を重ねた。
  • 昭和57年2月、住居表示実施。
  • 平成元年2月、東区と合区、中央区となる。

桃谷連合自治会の誕生

 戦時中の「国家総動員法」で桃園連合より分離誕生した桃谷連合は、戦時体制の警防団や隣組の組織であり、昭和20年8月の終戦ですべて解体された。

 戦後、民主・自治の地方行政に協力し、会員の親睦などを目的とした町会組織が次のような順で進化していった。


第一期

「桃谷自治協力会」

(昭和26年7月〜27年10月)

 戦前の連合に代わるものとして、民主的な地方自治に貢献できるような組織づくりのため、25年の春頃より度々会合が開かれた。桃谷部内に存在するいろいろな会=日赤奉仕団、防犯・防火に関する会、婦人会、老人会などを一つにまとめた会を結成したいと協議を重ねた。過渡期の策として「自治協力会」を作り、前記に関する会の責任者はもちろんのこと、各町の会長や有力者ももれなくこれに参加していただくこととして、結成総会にこぎつけた。

 桃谷自治協力会結成総会を昭和26年7月18日中寺町「本行寺」にて実施(総会出席者62名)。

 

初代会長、永田耕作。日赤奉仕団の団長は、久保田主悦(内安一)、河村長治(内安二)、松井重一(北桃西)、大西勝美(北桃北)、村上温太郎(北桃東)、南川芳雄(南桃北)、平本武八(南桃南)、成川清三(谷七)



第二期

「桃谷自治連合会」

(昭和27年10月〜32年6月)

 各町の自治会の組織が完了したので、桃谷自治協力会は解散して連合を一本にまとめた自治会を作ることになった。役員はそのまま移行うぃ、新しい会の運営に当たることになった。

 桃谷自治連合会結成協議を昭和27年10月24日に実施。同11月15日に町会会員にその旨を発表協力を求めた。

 

会長、永田耕作(留任)

 

各自治会の会長は、吉岡治雄(内安一)、河村長治(内安二)、松井重一(北桃西)、大西勝美(北桃北)、村上温太郎(北桃東)、南川芳雄(南桃北)、森口芳一(南桃南)、成川清三(谷七)



第三期

「桃谷連合自治会」

(昭和32年6月〜現在)

 組織を運営しているうちに、各地区、町会の意識を離れた連合意識で自治会を運営しようという気運が高まり「桃谷連合自治会は、桃谷各地区自治会の融和と協調をはかり、会員が相共に明朗な生活を営むように、活動すると共に、市区行政に協力し社会の福祉増進に寄与することを目的といたします。」と宣言し、新たなスタートをきった。その後現在まで先輩各位の努力で発展した。

 桃谷連合自治会結成協議を昭和32年6月18日に実施。

 

会長、永田耕作(留任)。その他現在運営されている各事業部門も選出する。

 当時の各自治会の会長は、吉岡治雄(内安一)、河村長治(内安二)、角田敬裕(北西)、大西勝美(北北)、永長義雄(北東)、林 春信(南北)、森口芳一(南南)、日外俊一郎(谷七)



これまでの歴代連合会長

  • 初代 永田耕作(昭和32〜45年)
  • 2代 林 春信(昭和46〜平成10)
  • 3代 桐石 晃(平成11〜15年)
  • 4代 齋川泰造(平成16〜21年)
  • 5代 鵜飼正彦(平成22〜25年)
  • 6代 原田壽幸(平成26年より現在)

現在の桃谷連合地域区域