今ふりかえる桃谷地域の歴史 第1回

第1回講演概要(11月17日18:00~19:00於:桃谷会館)

<上町台地の成り立ち>

現在のここ桃谷地域は、海抜22~23mの上町台地の上に位置し、地層が安定しており水の害もなく、極めて特異な存在といえる。

上町台地は太古には海の中にあり、10万年前に大阪湾に隆起した半島の中心に位置する。松屋町筋に沿って東側に樹木の茂った崖が伸びているが、それが今に残る10万年前の隆起の名残り(なごり)である。半島が南から北に隆起したことによって、大阪湾の一部が区切られ河内湾が誕生した。

 その後、周囲の川が土砂を運び、加えて、それまで温暖だった気候が次第に寒冷化して海面の水位が下がっていったことなどにより、半島の先端が対岸の近くまで伸びた。そのため河内湾と外の海をつなぐ水路が狭まり潮の干満に伴って急潮流となって、また、河内湾の中は周囲の川から流れ込んだ真水によって次第に汽水化し、海の魚と淡水の魚が豊富に獲れる汽水湖となっていった(図1~3参照)。

大阪の古名である“なにわ”を “難波” や“浪速” と書くが、“魚庭”とも書く。これは、庭のように目の前にある、魚が豊富な海という意味と思われる。大阪湾から区切られて河内湾となり、そして淡水化した湖は、その後完全に陸地化し、大都会となって現在に至っており、河内湾は消滅したが、今でも大阪湾を“チヌ(クロダイ)の海”とも呼び、此花に“魚庭”という店名の居酒屋もある。

 また桃谷を中心とするこの地域は、谷町、清水谷、細工谷など “谷” の付く地名が多い。これは、今では道路工事などで地形が変わり解り難くなっているが、丘陵のように盛り上がっている上町台地に食い込む深い谷が多いためである。

 

<縄文時代から古墳時代>

縄文時代の人骨が森ノ宮遺跡で見つかった。これは日本で発見された一番古い人骨と言われている。

5世紀の古墳時代に入ると、堺の仁徳天皇など大きな古墳が作られるようになった。

しかし、上町台地には小さな古墳が多く、大きい構造物は倉庫などであった。大阪歴史博物館の南側に16棟の倉庫群が発掘されており(上掲復元建物写真参照)、これらは古代の倉庫群として日本一の規模である。

上町台地は水害の心配がないため、大事なものを保管する倉庫を建てるのに適していた。また、当時湖に変わりつつあった河内湾など水に囲まれており水利に恵まれていたため、米などの搬入搬出に便利であったことも、これらの倉庫群が建てられた背景にあると思う。 

これらに収められていたものの大半は米であり、米を集められる財力のある人々が上町台地を治めていたことが解る。従って、桃谷地域から難波宮跡に至る地域には宮廷の官庁街や有力氏族の屋敷などが置かれていた。またこの地域には、漆細工や織物・染色、須恵器窯、鍛冶などの人々が集まっていて、農業より物作りの土地であったことが最近解ってきている。

 

<交通の要衝であった上町台地>

難波京の都市の領域は、当時、難波宮を中心に四天王寺周辺まで碁盤の目のように広がっていた。

関西地域では、熊野三山に参拝する熊野詣が、“アリの熊野詣”という言葉があるほどに古くから盛んで、京から熊野までの630㎞を歩き通すのに1か月かかった。貴人をはじめとする参拝客は京都から船に乗って、天神橋の南詰付近で降り、紀州和歌山までの旅を始めており、大阪は熊野街道の出発点となっていた。旅の途中で、貴人たちは四天王寺や住吉大社に立ち寄り参拝しており、四天王寺の西門から鳥居をくぐり海に入水する浄土信仰も現れた。

 熊野街道は、桃谷地域内の道端に石碑が置かれているように、谷町筋と上町筋に挟まれた上町台地の上の尾根道を縦に走っており(図4参照)、五十間道路がその一部として残っている。すなわち、上町台地は古(いにしえ)の交通の要衝であったといえる。

第2,3講座は追って掲載します。

                                                                                          記録・まとめ 広報部 町田

 

ご報告 【今、ふりかえる桃谷地域の歴史】

 

 10月から11月にわたって、大阪歴史博物館館長の大澤研一氏を講師にお招きし、それぞれ午後6時から桃谷会館にて私たちの住む大阪の歴史をテーマに講演会を開催しました。

 講演は10月17日、31日、11月14日の3回に分け、1回目は太古から11世紀まで、2回目は“秀吉の時代から江戸時代へ”、そして最終回は“明治時代から現代へ”。毎回40名前後の参加者が熱心に聞き入っていました。

講演はどの回も知らなかったこと、おもしろ発見にあふれ、「大阪は商いの都といわれているが、桃谷地域は古墳時代から昭和に至るまでものづくりの町であった」、「からほりは国内屈指の防御施設で、徳川軍は大坂冬の陣の際からほりを超えることが出来なかった」などなど思わずメモしたくなる内容もしばしば。特に最終回の現代になると、参加者からも自分の体験談など発言が相次ぎました。

講演内容をDVDに収録しております、視聴希望の方は桃谷会館事務所にて貸出依頼をしてください。