今ふりかえる桃谷地域の歴史 第2回

<城築城と城下町作り>

 豊臣秀吉は織田信長の家臣であり、信長の後継者として政権を握った。信長は明智光秀に倒されるが、光秀を倒したのは秀吉。大阪城建築の偉業を遂げた人物であるが、大阪城建築もさることながら、大阪城を中心に街づくりを行ったのが最も大きな仕事であった。

秀吉は元々大阪に縁のない東海地方の人。滋賀県の長浜に暫くいてその後姫路にもいたが、当時大阪には一度も入らなかった。大阪に城を構えた時、1583年に初めて大阪に入った。

大阪に城を築いたのは信長の遺志を継いだものであった。信長はかねがね「大阪は良いところ」と言っていた。大阪は海に面し、沢山の人と物が行き交うのに便利である。信長は岐阜や安土、京都を押さえていたが、みな海がない。信長は外に目を開いており、海外との付き合いに積極的で、外に向かっての活動を考えていた矢先に殺されてしまった。従って、信長が生きていたら大阪に城を築いていたであろう。

秀吉は信長の遺志を継いで大阪に城を築いたが、秀吉も彼なりに、堺はすでに商業が盛んで出来上がってしまっている土地であり、自分が街を作るなら“大阪”と考えていた。秀吉が最初に城下町を作ったのは、大阪城の西側と、大阪城から四天王寺に至る一帯にあった平野町(まち)で、ともに上町台地の上であった。その後人口増加に伴って手狭となり、秀吉が1598年没して以降天満や船場に街が作られたが、大きな街づくりが行われたのは上町台地の上である。船場などは土地が低く、川が氾濫すると水没の危険があったが、上町台地は安定しており安全であった(図1参照)

 

<上町筋と谷町筋>           

 桃谷地域には武家屋敷と寺があった。城に近いところに下級の武士が住み、その外側に町人が住むという、その時代のどこの城下町にもみられる通常のパターンである。街づくりは裕福な町人を誘致して行った。そのうちの平野町(まち)は、現在の大阪市平野区に住んでいて、当時比較的裕福だった町人に着目し彼らを誘致して街づくりを行ったため、その土地を“平野町(まち)”と名付けたものである。

これらの城下町づくりは、秀吉の時代から始まったやり方である。ちなみに上町筋を北に延長すると大阪城のお堀に突き当たる。上町筋は大阪城建築の際、石材を運ぶために作られたものである。

かたや谷町筋は、1615年の記録では大阪城を作った当時には無かったようである。谷町筋は、古くは阿倍野街道と呼ばれており、近くに住む武士の需要を背景に武器や武具、そして日用品などを扱う商人が多かった。

 

<空堀>

 桃谷地域で大切なのは “からほり” の存在である。大阪城の外側を守る防御ラインを考えると、東側は清水谷、北側は大川、西側は東横堀川が要害となるが、南側には防御となるものがない。そのため、現在の空堀商店街の南側を西に向かって掘ったのが空堀である。空堀は断面が台形をしており、おおよそ深さ10m上端の幅30mで長さが2㎞。日本の城の防御施設としてはかなりのもので、全国的にも注目されており、1614年の大坂冬の陣では徳川軍は大きな損害を出し、ついに空堀を超えて攻め入ることが出来なかった。

 

 <豊臣から徳川へ>

大阪城は1625年の夏の陣で落城焼失し豊臣家が滅んだが、西日本には豊臣恩顧の大名が少なからず残っており、政権の座に就いた徳川家にとって大阪は西に備えるかなめで、その復興が不可欠であった。この復興に当たったのが家康の孫にあたる松平忠明であったが、実際に動いたのは玉造平野口町年寄りの高津屋吉右衛門をはじめとする大阪の有力町人である。これら町人が“吉右衛門請地(肝煎地)”などとして手分けして土地を請け負い復興に当たった。

現在の五十間道路は、1660年当時大阪城に仕える鉄砲奉行同心50人が住んでおり、五十間屋敷と呼ばれていた名残である。また、内安堂寺橋通から谷町筋、空堀、松屋町筋に囲まれた地域には、徳川幕府の御用瓦師であった寺島惣左衛門が瓦土取場として利用していた“寺島瓦取場”があり、野模“ノバク”または“高原”とも呼ばれていた。

 

<花の名所>

 上町台地を中心とするこの地域には、植物で有名な所が多かった。上本町の札の辻から西側一帯に土取場があり、18世紀後半その跡に桃が植えられ“桃谷”と呼ばれていた。また、真田山や東高津の野中観音の桃も有名で、大阪城周辺の名所を描いた華城八景にも描かれている(図2参照)

観音坂のたもとの谷町藤棚観音も有名。おぼれ死んだ子供を供養するため、その父母が藤を植えたのが始まりで、名所となった。その他、宝樹寺のもみじ、妙法寺の松、妙光寺の枝垂れ桜、生玉馬場前の梅屋敷など、行楽の地として当時の人々を楽しませた。

 

                          記録・まとめ 広報部 町田